白旗城跡

見どころ

「白旗城(しらはたじょう)」は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した武将赤松円心により築城された山城で、足利尊氏を追う新田義貞率いる6万の軍勢を、わずか2千の兵で50日余り防ぎ止めた難攻不落の名城です。この白旗城跡が国指定史跡となって20年が経過したことを記念し、赤松地区むらづくり推進委員会と上郡町、西播磨県民局が協働で登山道の整備や「落ちない城・白旗城」PR活動を行い、白旗城跡を新たな観光拠点として誘客を図るプロジェクトを展開しています。

白旗城は、足利尊氏と共に建武政権に反旗を翻した赤松円心が、建武三年(1336)、新田義貞の軍勢を迎え討つために築かれました。「白幡寺」を城とした時、神仏が白旗として現れるという瑞兆があり、八幡・春日両社を勧請したとの伝承がのこることから、笠置城(京都府相楽郡笠置町)や麻耶山城(神戸市灘区)など、当時の山城によくみられる山岳寺院を改修した城郭とも考えられます。「白旗城合戦」で新田勢を足止めし、九州の足利勢の東上を助けた功により、円心は室町幕府の播磨守護職に任じられます。後に備前・美作などの守護も兼ねた赤松氏発展の基となった武功の城・白旗城は、代々の赤松氏本城として、その盛衰の歴史に登場します。
赤松円心の三男で、惣領家を継いだ則祐は、白旗城麓の赤松に守護館や五社八幡社を、河野原に宝林寺を営み、その本拠として整備します。跡を継いだ義則・満祐の代、白旗城への白旗降下の瑞兆が伝えられており、それを機に白旗城鎮守の白旗八幡社が山麓に移されたとおもわれます。同社には一切経が収められており、寺院と一体化した神仏習合の社として整備されたようです。
 嘉吉の乱で赤松満祐をはじめとする惣領家が一旦滅びた後も、その再興を目指す赤松則尚がいっとき入城します。後に、惣領家を再興した赤松政則の養子義村が浦上村宗と対立して入城する戦国時代前半までのおよそ180年余り、白旗城は赤松氏、特に惣領家にとって最も重要な地とみられていました。
 赤松惣領家は、その後置塩城(姫路市夢前町)を居城とし、関ヶ原の戦いなどで滅びたといわれていますが、法雲寺・宝林寺や五社・白旗八幡社などの赤松氏ゆかりの寺社は江戸時代ものこり、赤松氏の遠祖・源季房までさかのぼる白旗城伝説が播磨の赤松氏末裔たちによって語り伝えられるなど、白旗城は今なお赤松氏ゆかりの山城として広く知られています。
 白旗城は「赤松氏城跡」として感状山城(相生市矢野町)、置塩城とともに国指定史跡として整備が図られています。

◆見所
 標高約440mの白旗山上から尾根・谷部にかけて、東西約350m、南北約850mにわたって築かれた曲輪(くるわ※平坦地)群は、戦国時代前半まで改修され続けた跡とみられ、播磨の中世山城の中でも破格の巨大さを誇ります。
本丸跡、櫛橋丸跡と伝えられる第1・4郭からの西の赤松方面への眺望は良好で、第1郭東方からは播磨科学公園都市を遠望することができます。
侍屋敷と伝えられる谷部の曲輪には、高さ約1.5mの石積や庭石らしき立石などがのこり、山岳寺院跡の遺構とよく似ていることなどから、合戦のない時期には、神仏習合の白旗八幡社奥の院として使用されていたとおもわれます。
第3・4郭には、堀切の上に土塁や石積がそれぞれ築かれ、戦国時代後半の城郭でさらに発達する厳重な防御施設への萌芽をみることができます。
 

場所

アクセス 〔鉄 道〕JR山陽本線から上郡駅で智頭線乗換え。2駅目の河野原円心駅下車。徒歩20分
〔自動車〕山陽自動車道龍野西I.Cから西へ約40分、中国自動車道佐用I.Cから南へ約30分
※山麓から城跡 近畿自然歩道を登り、約1時間

※主な参考文献 『国指定史跡 赤松氏城跡 白旗城跡』 1998年 
上郡町教育委員会・白旗城跡調査委員会
『上郡町史』第一巻 2008年 上郡町